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 往生寺の由来
 12世紀のなかば、76代近衛天皇の代の仁平2年(1152)春、九州の博多、今の福岡近辺の領主であった
加藤左衛門尉重という武士が、花見の宴で酒盃のなかに桜のつぼみが落下したのをきっかけに世の無常をさとり、出家を決意して比叡山にのぼり、叡空上人のもとで剃髪をし、等阿と名のる。俗に言う刈萱道心(かるかやどうしん)の誕生である。
次いで源空(法然上人)の弟子となり、黒谷(京都)において十三年間、念仏にはげんでいたが、妻子がたずねて来るのをおそれ、当時、女人禁制であった高野山に身を隠した。しかし、14歳に成った実子の
石堂丸が父をたずねてくる。我が子であることに気づきながら、父であることを伏せて、そのかたはこの世の人でないと告げる。
 石堂丸は、高野山のふもとの学文路宿(かむろのじゅく)に待つ母のもとに戻ったが、長旅で病んだ母は落命したあとであった。泣く泣く母の遺骨を背にして再び高野山へのぼり、先に面会した僧をたずね、弟子入りをせがむ。刈萱はやむなく親子の名のりをしないまま弟子とし、
道念と名ずける。
 やがて、成人した石堂丸をみとどけた刈萱は、親子の情愛に引かれがちな修行に終止符をうつべく、単独で信州善光寺を目指して旅たつ。かくして善光寺如来に七日七夜日参し、最後の修行地として、善光寺の西北六丁の山腹の地を授かった。長年の修行の後、建保2年(1214)に83歳で入寂した。
 生前、一体の地蔵尊を彫刻をして遺したが、刈萱の滅後に、ひとり残された石堂丸も善光寺に参詣し、父のそれを手本として同じ地蔵尊を彫刻した。これは
「刈萱親子地蔵尊」と称され、往生寺に安置され今日に至っている。刈萱上人入寂の地の寺として「刈萱堂往生寺」と称する。

 刈萱縁起
 石「往生寺」の由来は、刈萱親子地蔵尊の縁起で、これは「刈萱堂往生寺縁起」として普及されてきたが、刈萱と石堂丸の親子の物語は、古典文学のうえでも、いろいろなかたちで扱われ有名。
 説経浄瑠璃「かるかや」寛永年(1631)刊本が現存最古のものというが、それより先の慶長年間(1596-1615)ころの絵入写本1冊がある。江戸版に「かるかや道心」 「かるかや道心事」があり、謡曲「刈萱」がある。

 
往生の語義
 ひとが親のいのちを引き継いで生まれてくること、すなわちこの世にでてくることを誕生と言うが、死にいたってあの世にいくことを往生という。
 「ゆきうまれる」という表現は,この世からあの世へむかって行き、その行き先に迎え入れられることを、受け入れがわの立場から、生まれる、と言ったものである。言い方を変えれば、
あの世への誕生を往生と言い換えたものと思えばよい。
 もとより、この仏教語は梵語(ぼんご=サンスクリット)の訳語であり、経典にもとずくものである。日本人の祖先ともくされるひしびとは、神代の昔から死後の世界をあの世と考えてきたが、仏典では、それを「安楽国」「安養土」「極楽」などという。死後そこに生まれることを往生といい、それを確実にして下さるのがアミダ仏である。したがって、往生寺の本尊(中心になる仏)はアミダ仏である。
 善光寺如来は、いわば日本における代表格のアミダさまというわけである。

                  −−−往生寺住職 水野善朝

堂「

      

                           

  

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