信州をひもとく【3】

 林檎園の風景    
井出孫六

menu (1)  (2)  (3) (4)                      地域文化 vol.19(八十二文化財団刊)

 

 やがて、この篤実な技師が憤懣やる方ない口吻をもらさずにはいられない時代がやってくることになる。
 日中戦争の拡大と共に、りんごがなぜか非国民風な目でみられるようになっていくのはどうしたことか。明治以来、ようやく巨木になったりんごは広大な畠に、大鷲の翼のように枝を広げていく。一粒でも多くの米を増産しなければならないとき、りんご農家の好況は翼賛の思想となじまなかったということか。
 講習会でのりんご技師の発言が、特高のマークすることとなり、村や町の翼賛会員は声高にりんごの伐採を叫んだ。昭和16年4月5日、ついに果樹増殖禁止令が発令されたとき、藤原玉夫は最後の決意に追い込まれたと書いているが、それに先立つこと数ヶ月前、更級郡青木島村で剪定指導があった夜の犀川温泉での慰労会で、藤原は農民たちに技師を辞める時期が近いことを告げた。打てば響くような反応がここでもあって、「藤原果樹園期成同盟会」結成が満場の拍手で決議されてしまったのである。

 昭和16年11月、りんごの収穫がようやく終わったころ、一年前の犀川温泉の慰労会の幹事役たちがうちそろって、「昨年の約束通り、良い果樹園が約3反歩見つかった」といって藤原玉夫のもとにやってきた。
 大正14年西も東もわからぬままにこの山国に赴任してきたとき、藤原玉夫は自分が20年後に信州のりんご農家になろうなどと想像だにしなかったにちがいない。しかし、20年たって、りんご農家と辛酸を分かち合ってきた今、りんごが白い目で見られるとき、むしろ、自然な気持ちでその3反歩のりんご畠を引き受けることのできる自分を発見していた。
 真珠湾攻撃に人々が昂奮している昭和16年12月、更北村丹波島にある小さな果樹園の片隅に、10坪の小屋を建てるのに余念のない初老の紳士がいた。
 
end
 
  menu    追記







> HOME


りんご園の風景
りんごの様子
写 真(りんご、長野)
「信州りんご」資料
栽培りんご品種の紹介 
りんご料理 
メ モ 帖
20世紀の記念
自習帳
宮沢千賀さん
リンク
周辺地図



 
当園概要  New
通信販売法に基づく表記